春、雲龍寺にて
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表門と塀は、町場と境内を隔てる装置に違いないが、
その隔ての様相は「分断」でなく「分節」だ。
例えるなら、「。」ではなく「、」。

「、」は、今日のまちにおいて劣勢で、
もっぱら「。」が氾濫気味である。
無機質なシャッター、堅牢な外壁、
高気密のアルミサッシュ、背の高い塀、など、など。
いずれも外部と内部を完璧に二分する「。」的装置だ。

そんな今情に対し、古来の建築装置は「、」が主だった。
木格子や蔀戸、結霜ガラス戸、土足の土間、縁側などがその例で、
内部は外部の延長であり、外部は内部の延長として扱われた。

「、」の「。」化が、今日の町場の殺風景を助長しているように思う。
「。」は、視線の抜けを遮断することでまちの「奥行」を奪ってしまうし、
夕飯の香りや団らんの声など、生活の「匂い」を外路に醸すことも許さない。
これでは、まちに潤いや生気、活気など望めるはずがない。

もっと、「、」を考えたい。
雲龍寺の境内で、そう感じた。



先日、iPhoneを手放し、以前のケータイに持ち替えた。
例の友人も同じ決起に出たようで、その理由もだいたい一致している。
便利で、新鮮で、刺激的だったそれにも、いつしか飽きていた。
もう少し冷静になって、物事の手触りや匂いを、自分の神経に取り戻したい。
by nabe_tk | 2013-04-04 00:36
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